物事が分からないのは気持ち悪い。でも解消しようと動いてきたわけでもない。
たとえばテレビを毎日観ている。
液晶テレビが映る仕組みは分からない。リモコンでチャンネルを替えられる理由も分からない。アナログ電波からデジタル電波に変更になった。だからなに? 電波って? コンセントを指せばなぜか映るけど、テレビって何なんだろう?
身近な例でもこうだ。理系の大学を卒業した人なら分かっているんだろうか。それとも高校や中学での怠慢のツケなのか。
テレビだけじゃない。車やパソコン、スマートフォン、アスファルト、ピアノ、魔法瓶、電子レンジ、印刷、紙の製造、布の編み方。分からないことが多すぎる。
モノと同じようにコトも分からない。
歴史の流れや哲学、社会学の概念、宇宙の成り立ち、数学、政治、英語、フランス語、中国語、文学、経済、美術。枚挙に暇がない。
分からないものを分からないままにしていると本当は気持ち悪い。ほんの少しだけ。我慢できないほどではない。だからそのままにしている。
で、ふと分からない瞬間にバッタリ出くわして「ああ、これ調べてないから分からないんだよな」と顔を背けて小さな針が胸に刺さる。
時間は有限だ。死ぬまでにできることは少ない。あと六十年程度。誰にも世界中の本を読むことはできない。でも分からないことを諦めるには早すぎないか?
分かると楽しいに違いない。ひとつ分かると新しい分からないが現れて、また分かるための努力をする。その繰り返しはきっと楽しい。
下から少しずつ積み上げないと届かないものも多いだろう。数学がいい例だ。小学校から続くルートを丁寧に通っていった先に最新の研究がある。モノでもコトでもたくさんの基礎の上に載っかっている。
楽しみたいなら愚直に積むのが最短ルートだ。落下傘はない。
ネガティブに考えればどうせ最後は死ぬんだけど、何も分からないまま死ぬのは嫌だ。きっと後悔する。ポジティブには知的好奇心を満たしたい。まだ間に合うんじゃないか。
甘い蜂蜜で満たされた壺を持っている人がいるのに、薄い砂糖水で誤魔化したコップしかない。それが自分だ。でもそれは怠慢のせいだ。仕方ない。過去を嘆くのはやめろ。
もっと欲張りになろう。もっと世界を知ってやろう。そういう気持ちになったのが今日。
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